2016.05.19 (Thu)
衝撃的な図を見た!源平合戦 一の谷のゆくへ
今日は料理とは全く関係ない歴史の話です。
こんな童謡をご存じでしょうか⇒牛若丸と弁慶
♪京の五条の橋の上
大のおとこの弁慶は
長い薙刀ふりあげて
牛若めがけて切りかかる♪

京都・五条大橋にある牛若丸と弁慶の可愛いモニュメントなんです。
牛若丸は小さいけど、身軽で強かったというお話ですね
でもタイトルとなんの関係があるの?しかも何の話しやって思われた方も居られるかと
まだしつこく平清盛関連の源平合戦を追いかけてて(笑)大いに関係があるのです。
少し前になるのですが、神戸市立博物館で行われてた「須磨の歴史文化展」を見てきました。

須磨というのは神戸市内の西に位置するところで、平安時代の和歌にも登場する場所なんです。
子供の時から二十歳前まで住んでまして愛着がある場所なんですよ
何を見たかったという前に少し平安時代の終わり頃の話をしますね
平安時代の政治は天皇が実権を握っており、その天皇の継承は貴族や公家を中心として
争いを繰り返しながら継承されてきたのです。
それを天皇や公家を守る身分の低い武士である平清盛が、貿易により経済力を持ち
天皇の信頼を得ながら初めて武士として公家になり、自分の娘を天皇に嫁がせて遂に
孫を天皇にさせ実権を握ったのです。
そして強引に都を京都から自分の好きな神戸の福原に移したのです。
一方武士でライバルであった源義朝は平清盛に負けて殺され、その三男であった源頼朝も
清盛に殺されそうになったのですが、清盛は命は取らず伊豆へ島流しにしたのです。
後に源頼朝が勢力を伸ばし平家を追い詰めていくのですが、その源頼朝の弟が最初の牛若丸なのです。
平家は追い込まれて一旦は四国の屋島に逃げるのですが、体制を整えて神戸の福原に戻り
源氏方を迎えて一大決戦に臨むのです。
それが世にいう「源平合戦・一の谷の戦い」で、最大の功績は牛若丸と弁慶が絶壁を馬を使って
駆け下り、それを見た平家が恐ろしくなって逃げだし源氏が勝ったという合戦なんです。
その駆け下りてる様子の絵です(お借りしてます)
![422px-Sakaotosi[1]_convert_20120902083712](https://blog-imgs-55-origin.fc2.com/a/j/i/ajimeguri780/2012090208373344c.jpg)
この事は当時の様子を書いた歴史書・吾妻鏡に書かれいて間違いない事のようなのですが
どうも納得できないのです。
その様子を詳しく書いてるwikipediaはこちら⇒一の谷の戦い
平家の武士も命を掛けて戦ってるのです。
平家は東側に東木戸を生田川(現在のフラワーロード)に立てて、源氏の大軍を待ち受け互角に戦うのです。
一方の西側の平家の武士、いくら義経(牛若丸)が凄いと言っても崖から降りてくる様子を見て逃げますか?
数は圧倒的に自軍の平家の方が多いのですよ
西側の平家の武士は見ただけ怖気づいて逃げた
刀で戦うので人数が多い方が勝ちと言われた時代、納得できないのです。
吾妻鏡には一の谷の後ろにある鵯越から意表をついて牛若丸と弁慶が攻めてきたと書いてるのです。
この文章が謎なんです。
現在の鵯越と一の谷は別々の場所で10km程離れていて、話が合わないのです。
それでは絶壁を降りて来たのはどこなのか?
これがずっと論争になってるのですが、この場所によって平家がどう戦ったか違ってくるのです。
一体、西木戸(西側の陣地を区分して防御する板)はどこにあって、どんな戦い方をしたのだろう?
普通に考えるなら、福原を中心として生田川を東木戸にするなら、同じような距離の所の川辺りに
西木戸を立てて待ち構えるのじゃないでしょうか
問題をややこしくしてるのが一の谷という明治時代から伝わる場所なのです。
神戸西部の地図です。
![genpei_ichizu[1]_convert_20120901131334](https://blog-imgs-55-origin.fc2.com/a/j/i/ajimeguri780/2012090113250231c.jpg)
赤い丸が神戸の都であった福原ですが、ここを中心として東側に平家が京都から山陽道を源範頼の大軍を迎え
生田川(今のフラワーロード)に木戸を立てて戦った場所なのです。
そして現在の鵯越は小さな茶色の◇で一の谷は緑の□になるのです。
これでは話が合わないので、学者の方が研究されて文章から
緑の□の現在の一の谷が合理的と判断され
歴史や観光、そして映画が作られてきたのです。
でも、そうなると平家は正面から向かってくる義経(牛若丸)を見て逃げた弱虫となるのでしょ
そこんところが、どうしても納得できないのですよね
でもそれを覆すとなると、町興しや映画までも作られてるのですから大変な問題なのですね
そんな疑問をずっと持ってて、この「須磨の歴史文化展」で見た驚きの絵がこれなんです。
写真が禁止で撮れませんので、スケッチしたのを載せました。
「塩屋村垂水村与西須磨村国堺井漁業相論絵図」(1669年)というものでした。

これは江戸時代の初期、密漁に悩む村民がお奉行に訴えた時、奉行所が裁きをするために
書いた地図らしいのです。
よく見ると、一の谷、二の谷、三の谷とあって、どうも谷じゃなくて川のようなのです。
江戸時代の初期、一の谷とは川で途中で分岐してるのですよ
これはネットいくら探しても出てきません。
これで完璧かというと疑問が残る部分もあるのですが、非常に重要な図に思えるのです。
その文化展の最後に「神戸市須磨舞子全景」という写真の説明では
現在の一の谷しか存在せず、敦盛塔のある場所に代わってるのです。
この時代の間に、誰かが谷=山と間違えて違う場所を一の谷と伝えたようなのです。
その間違った情報(江戸時代後半から明治の話)を基に、色々と物語が出来たみたいです。
これは兵庫津(現在の兵庫から神戸港)の図なのですが、よく見ると左側に分岐した川が有るでしょ
ひょっとすると、あれが一の谷?なんて勝手に思ったりするのです。
(街中にある看板から)

もしそうだとしたら
僕の推論です。
西木戸は一の谷(川)に立てて源氏を迎えようと兵を配置してた
そこへ源氏が外から攻めて防御しながら戦っいたら、西木戸の内側に急に鵯越の谷から
義経が現れて背後からも攻められ、混乱して逃げてしまったのではないかと思うのです。
これが当たってるかどうか分かりません
素人の推論ですから・・・・当たってるような気がするだけどな・・・・
こんなことをしながらも楽しんでます(*^□^)ニャハハハハハハ!
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♪京の五条の橋の上
大のおとこの弁慶は
長い薙刀ふりあげて
牛若めがけて切りかかる♪

京都・五条大橋にある牛若丸と弁慶の可愛いモニュメントなんです。
牛若丸は小さいけど、身軽で強かったというお話ですね
でもタイトルとなんの関係があるの?しかも何の話しやって思われた方も居られるかと
まだしつこく平清盛関連の源平合戦を追いかけてて(笑)大いに関係があるのです。
少し前になるのですが、神戸市立博物館で行われてた「須磨の歴史文化展」を見てきました。

須磨というのは神戸市内の西に位置するところで、平安時代の和歌にも登場する場所なんです。
子供の時から二十歳前まで住んでまして愛着がある場所なんですよ
何を見たかったという前に少し平安時代の終わり頃の話をしますね
平安時代の政治は天皇が実権を握っており、その天皇の継承は貴族や公家を中心として
争いを繰り返しながら継承されてきたのです。
それを天皇や公家を守る身分の低い武士である平清盛が、貿易により経済力を持ち
天皇の信頼を得ながら初めて武士として公家になり、自分の娘を天皇に嫁がせて遂に
孫を天皇にさせ実権を握ったのです。
そして強引に都を京都から自分の好きな神戸の福原に移したのです。
一方武士でライバルであった源義朝は平清盛に負けて殺され、その三男であった源頼朝も
清盛に殺されそうになったのですが、清盛は命は取らず伊豆へ島流しにしたのです。
後に源頼朝が勢力を伸ばし平家を追い詰めていくのですが、その源頼朝の弟が最初の牛若丸なのです。
平家は追い込まれて一旦は四国の屋島に逃げるのですが、体制を整えて神戸の福原に戻り
源氏方を迎えて一大決戦に臨むのです。
それが世にいう「源平合戦・一の谷の戦い」で、最大の功績は牛若丸と弁慶が絶壁を馬を使って
駆け下り、それを見た平家が恐ろしくなって逃げだし源氏が勝ったという合戦なんです。
その駆け下りてる様子の絵です(お借りしてます)
![422px-Sakaotosi[1]_convert_20120902083712](https://blog-imgs-55-origin.fc2.com/a/j/i/ajimeguri780/2012090208373344c.jpg)
この事は当時の様子を書いた歴史書・吾妻鏡に書かれいて間違いない事のようなのですが
どうも納得できないのです。
その様子を詳しく書いてるwikipediaはこちら⇒一の谷の戦い
平家の武士も命を掛けて戦ってるのです。
平家は東側に東木戸を生田川(現在のフラワーロード)に立てて、源氏の大軍を待ち受け互角に戦うのです。
一方の西側の平家の武士、いくら義経(牛若丸)が凄いと言っても崖から降りてくる様子を見て逃げますか?
数は圧倒的に自軍の平家の方が多いのですよ
西側の平家の武士は見ただけ怖気づいて逃げた
刀で戦うので人数が多い方が勝ちと言われた時代、納得できないのです。
吾妻鏡には一の谷の後ろにある鵯越から意表をついて牛若丸と弁慶が攻めてきたと書いてるのです。
この文章が謎なんです。
現在の鵯越と一の谷は別々の場所で10km程離れていて、話が合わないのです。
それでは絶壁を降りて来たのはどこなのか?
これがずっと論争になってるのですが、この場所によって平家がどう戦ったか違ってくるのです。
一体、西木戸(西側の陣地を区分して防御する板)はどこにあって、どんな戦い方をしたのだろう?
普通に考えるなら、福原を中心として生田川を東木戸にするなら、同じような距離の所の川辺りに
西木戸を立てて待ち構えるのじゃないでしょうか
問題をややこしくしてるのが一の谷という明治時代から伝わる場所なのです。
神戸西部の地図です。
![genpei_ichizu[1]_convert_20120901131334](https://blog-imgs-55-origin.fc2.com/a/j/i/ajimeguri780/2012090113250231c.jpg)
赤い丸が神戸の都であった福原ですが、ここを中心として東側に平家が京都から山陽道を源範頼の大軍を迎え
生田川(今のフラワーロード)に木戸を立てて戦った場所なのです。
そして現在の鵯越は小さな茶色の◇で一の谷は緑の□になるのです。
これでは話が合わないので、学者の方が研究されて文章から
緑の□の現在の一の谷が合理的と判断され
歴史や観光、そして映画が作られてきたのです。
でも、そうなると平家は正面から向かってくる義経(牛若丸)を見て逃げた弱虫となるのでしょ
そこんところが、どうしても納得できないのですよね
でもそれを覆すとなると、町興しや映画までも作られてるのですから大変な問題なのですね
そんな疑問をずっと持ってて、この「須磨の歴史文化展」で見た驚きの絵がこれなんです。
写真が禁止で撮れませんので、スケッチしたのを載せました。
「塩屋村垂水村与西須磨村国堺井漁業相論絵図」(1669年)というものでした。

これは江戸時代の初期、密漁に悩む村民がお奉行に訴えた時、奉行所が裁きをするために
書いた地図らしいのです。
よく見ると、一の谷、二の谷、三の谷とあって、どうも谷じゃなくて川のようなのです。
江戸時代の初期、一の谷とは川で途中で分岐してるのですよ
これはネットいくら探しても出てきません。
これで完璧かというと疑問が残る部分もあるのですが、非常に重要な図に思えるのです。
その文化展の最後に「神戸市須磨舞子全景」という写真の説明では
現在の一の谷しか存在せず、敦盛塔のある場所に代わってるのです。
この時代の間に、誰かが谷=山と間違えて違う場所を一の谷と伝えたようなのです。
その間違った情報(江戸時代後半から明治の話)を基に、色々と物語が出来たみたいです。
これは兵庫津(現在の兵庫から神戸港)の図なのですが、よく見ると左側に分岐した川が有るでしょ
ひょっとすると、あれが一の谷?なんて勝手に思ったりするのです。
(街中にある看板から)

もしそうだとしたら
僕の推論です。
西木戸は一の谷(川)に立てて源氏を迎えようと兵を配置してた
そこへ源氏が外から攻めて防御しながら戦っいたら、西木戸の内側に急に鵯越の谷から
義経が現れて背後からも攻められ、混乱して逃げてしまったのではないかと思うのです。
これが当たってるかどうか分かりません
素人の推論ですから・・・・当たってるような気がするだけどな・・・・
こんなことをしながらも楽しんでます(*^□^)ニャハハハハハハ!
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mon tresor 2007 |
2016.05.20(金) 17:36 | URL |
【コメント編集】
こんばんは♪
歴史は学生時代嫌いでしたが、京都でお寺巡りをしてると
神戸と関係がいろいろと有ることが分かって
段々と面白くなり興味が出てきました。
なんでもそうだと思いますが、調べて知ってから見に行くと
見方が変わって面白いですね
博物館は年間パスを買ってるので、気になったら
何回も行って観るようにしています(*^□^)
歴史は学生時代嫌いでしたが、京都でお寺巡りをしてると
神戸と関係がいろいろと有ることが分かって
段々と面白くなり興味が出てきました。
なんでもそうだと思いますが、調べて知ってから見に行くと
見方が変わって面白いですね
博物館は年間パスを買ってるので、気になったら
何回も行って観るようにしています(*^□^)
メタさん |
2016.05.20(金) 22:17 | URL |
【コメント編集】
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歴史お詳しいですね~。
色々調べて行くと楽しいでしょうね!
男性はお好きな方多いのでしょうか?
夫の部屋にも歴史本が沢山あります。
神戸市立博物館色んな展やっているのですね。
お近くでしたら 度々足を運べていいですね♪