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2012.05.27 (Sun)

平清盛「保元の乱」

さあ始まりました。
日曜日恒例の平清盛解説、裏話、今日もやりまっせ!

平清盛、去年から勉強し始めて今もやってますが
そうすると、何でも見た事が清盛に結び付いてきて面白いです。

昨日は、神戸御影にある白鶴美術館に行ってきて、中国陶磁の文様世界
なんてのを、誰も居ない部屋で一人観てました。
中国の北宋の時代ですから、今やってる清盛の時代なんです。
白磁器や青磁器なんかがあり、こういう品物を当時は貿易して輸入して
たんだと思うと、身近に感じられて楽しいですね
また日を変えて、その様子をUPします。


さて、お待たせしました。(誰も待ってないって・・・あははは)
物語の重要な場面である「保元の乱」が始まりました。

先週までの内容はこちらをご覧ください⇒


後白河天皇 対 崇得上皇
藤原忠通  対 藤原忠実・頼長
と分かれて、戦いが始まります。
武士はどちらに付くのか!

源氏は為義と義朝の親子が分裂しましたが、平家の清盛はどうするのか
決めかねてる状態
それは源氏は勝って手柄を挙げ、どちらも昇進したい思いが分裂させた
のですが、平家はもう既に武士としての最高位に就いてます。

戦はしたくない、というのが清盛の考えでした。
しかし状況はどちらかに付かなければいけない為、迷っていたのですが
そこに母、池禅尼によって助けられたのです。

じゃ、どうして池禅尼は後白河天皇が勝つと思ったのか、そこを今日は
調べてみました。

保元の乱の戦力状況は下記の通りでした。
>>
後白河天皇氏族崇得上皇反対勢力になった理由
平清盛300騎伊勢平氏源為義不明信頼無く頼長に仕える
源義朝200騎河内源氏源頼憲元々崇得上皇に仕える
源義康100騎河内源氏平忠正忠盛に対し反発心
源頼政摂津源氏
源重成清和源氏
平信兼常陸平氏


後白河天皇方には、清盛や義朝以外にも大勢の見方がいたんです。
それに対して、崇得上皇側は反発した個人の集まりでしたので、数は
明確な記録が無いのですが、少なかったようです。

この様子を崇得上皇の乳母として、真近で見ていた池禅尼は余りの違いに
後白河天皇が勝つと肌で感じたのでしょう。

しかし、もし清盛が崇得上皇側に付けば、戦力は互角に近くなり、最前線で戦わ
なければいけなかったと思います。
それは清盛の意に反していたので、やっぱり後白河天皇側に付いて、ゆっくり
やろうか、なんて思ってたのかもしれませんし、池禅尼もそれを望んでいたのでしょう。


案の定、戦が始まると表の600騎が先頭になって攻め込みますが、清盛は
「合戦は板東武士にまけせておいて、ゆっくり見物じゃ・・・命は大事」
なんてあまりやる気がなく予想どおり
(板東武士とは東国の武士で、源義朝の軍勢を言ってます)

それに反して、平重盛が血気盛んに敵陣に突き進もうとしたのを見て、慌てて
止めに入ったとか・・・・

そういえば、保元の乱の屏風絵に書かれてた清盛は、皆が戦ってる時に後ろの方で
壁の傍に、ボーと立ってる絵を見ましたわ(笑)


結果は圧倒的に数で勝る後白河天皇側が勝ったんですが、源為義は源氏の棟梁では
無かったのか、なんで兄弟以外に源氏を纏めて味方に付けれなかったのだろうと
思うのです。

源為義と同期に実力のあった河内源氏は下記のように存在していました。
・源義国・・・従五位下加賀介
・源義信・・・従四位下左兵衛佐
・源経国・・・義忠の長男
・源義高・・・従四位下左兵衛権佐
・源義光・・・従五位下刑部少補
・源義時・・・左兵衛尉
なんか分からんけど、ようさん居るでしょ

天皇方にも沢山の源氏が味方に付いてますし、為義には味方が居なかったの?
どうも源氏の棟梁は為義じゃなく、別の人間だったのかとも思えます。
平家は清盛が棟梁とはっきりしてますが、源氏は分からないのが実態のようでした。

じゃなぜ源為義が源氏の棟梁と言われてるかというと、その孫の源頼朝が鎌倉幕府
を起した歴史上の重要人物で、その祖父ということで、説明する時に棟梁的扱いで説明
されてるというのが本当のことらしいです。


さあ、これからだんだん面白くなってきますよ
いいですね~~、楽しいですね~~

それでは皆さん

さよなら

さよなら

サヨナラ!


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テーマ : 雑記 ジャンル : 日記

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