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2011.03.21 (Mon)

僕と母親の昔話

僕が物心が付いたときには、神戸の西の方にある
須磨区板宿という所に住んでいました。

水道もトイレも共用で、家って言うもんじゃなく間借でした。
貧乏だったんです。はい

両親と姉と僕の4人家族でしたが
父親は酒に溺れ、家で喚き暴れていました。
気が弱く、外で文句を言えない分、家で母親にあたっていました。
仕事も長続きせず、どの位まともに働いたか知りませんが
なかなか安定した収入が入りませんでした。

そんな状態のなか、母親は一生懸命働き、家計を支えました。
そして家に帰ってくると、ご飯を作って、訳の分からない事を喚く父親の相手です。
毎日のように喧嘩です。
そんな家庭でした。

僕が高校を卒業して就職し、夜間大学へ通ってた1年の終わり頃
父親がまた酒で暴れて、母親を殴っていました。

隣の部屋にいた僕は、我慢できなくなって父親のところへ行って
父親を殴りました。
僕は「こんな家におれるか、出て行く」
といって引越し準備し、出て行きました。

姉も同様な感じで、もう家には居ませんでした。
子供が出て行っていまい、母親は凄く悲しかったのだろうと思います。
でも、どうする事もできなかったのです。

僕は大阪で、6畳1間の暗いアパートを借りました。
その時の会社の給料は、4万8千円だったと思います。
そこから光熱費や家賃で2万円が無くなります。
残りは学校までの電車賃とバス代を出し、大学で必要な物を買い
残りが食費でした。
給料前には、本当にインスタントラーメン買うお金もなくなる毎月で
授業料はボーナスで支払いました。
遊ぶお金なんて無かったです。

そんなとき、会社の人で朝4時半に起きて、朝食のおにぎりを作り遠いところから
持ってきてくれる人が現れました。
それが今の奥さんなんです。

一緒に朝ご飯食べた後は、手を繋いで会社行っていました。
それを上司が、窓から見てて
「何を朝から、いちゃいちゃして会社来とんじゃ」ってよく怒られていました(笑)
いう事聞かなかったですが・・・あはは

それから結婚し、6畳と4畳半の2間の家に住み、子供も生まれて1年ほど経った時でした。
母親が家に来て、相談があるといいます。
「お父さんがな、一緒に住みたいというてる。
  皆で働いたら何とかなると言うてるんやけど・・・・」

それに「借りる時の敷金は無いので出して欲しい」と

迷いました。
僕もそんなに貯金は無く、しかも社内預金だけでした。
結局、上司から経理に話してもらい全額緊急出金しました。

そして、神戸の山の麓のような妙法寺へ両親と引っ越しました。
最初の半年は何事も無かったのですが
それ以降、父親はまた元に戻り、働きもせず毎日酒を飲み
グダグダ言うようになりました。

それには、僕の奥さんが耐えられません。
子供を連れて家出しました。
幸い直ぐ戻りましたが、奥さんの事が心配で仕事が手につきません。

やはり同居は無理と思い、また出て行こうと考えたとき
父親が酒とたばこの酷い部屋で喚いていたので
僕が父親を玄関の方まで引きずり出し
「出て行け」
と叫けんでるところへ、母親が
「こんな人間のために、あんたが傷ついたらあかん」
と止めに入ってくれました。

僕達もお金が無かったので市営住宅に申し込んだら、一回で当たり
早速別居して暮らすようになりました。

その後の、両親の細かい経緯は知りません。
2回程引越しして、風呂のない小さな家に引越していました。

喧嘩別れしたため、両親には連絡も何もしませんでした。
そんな正月が近かった日だったと思います。
母親から電話がありました。
「何の連絡もよこさんとは、どういうことや」

えらく怒っており、30分位電話で文句を言っていました。
僕は何も言わず、ただじっと聞いてました。
僕は母親には、反論する事はしなかったです。

その正月、2人目の子供も連れて4人で両親の家に行きました。
結局、父親が孫を抱きたかった。
それだけだったような気がしました。
母親は、父親にずっと言われてたんでしょうね。

その後、お酒が原因で父親は亡くなりなした。
気丈な母親は葬式もしきり、無事に済ませました。
以前、父親が「お前は気が強過ぎる」と言った時
母親は「あんたのせいで、気が強くなったんや」
と反論していました。

少し経ったある日、僕が母親に一緒に住もうかと言ったのです。
父親が居なくなったので、上手くいくと思ったのです。
母親には迷いはなく、再び同居生活が始まりました。

最初は四国へ旅行に行く時も、一緒に母親も行き
喜んでいたようでした。

でも日が経つと、僕らの若い家族と、苦労して歳を取った母親とは合わなかったのです。
しかも、長年の父親の影響で気が短くて強い人になっていたのです。

嫁姑のいざこざが始まります。
僕は母親に文句をいう事なしに、奥さんにはひたすら謝っていました。
それしか出来ませんでした。

同居して数年経った時、母親が肺結核になり入院しました。
少し遠いところでしたが、奥さんが対応してくれました。
でも、奥さんは病院から泣いて帰ってきました。
大部屋に入るとき、皆に挨拶しなかったという理由で相当文句を言われたのです。
兎に角、僕は奥さんに謝って、謝って・・・それだけでした。

その結核せいか不明ですが、母親の皮膚が斑に白くなったのです。
凄く気にしていました。

母親は、同居により生活費が要らなくなっても、余ったお金で
遊んだり、服を買ったり、美味しいものを食べるということは
出来ませんでした。

一緒に食べに連れて行っても、待つ事が嫌いでイライラしてしまうのです。
だから、一緒に行く機会も減っていきました。

「我慢が美徳」という生活でした。
ただ規則的に、決まった時間にご飯を食べる
でも自分で作るという事はしなかったです。
自分は料理が下手だから、それを見せたくないとの思いが消えないのです。

夕飯の時間がずれると、ソワソワしてくるのです。
その晩ご飯の用意を奥さんは、20年以上してくれました。

孫の結婚式にも、人前には出たくないと言って聞きませんでした。
お祝いだけ渡して、家にいました。

その後、姉が亡くなり、その姉の孫がお世話になったから温泉へ行こうと
一生懸命に誘ってくれたんですが、聞きませんでした。
何が楽しみだったのか分かりません。

していた事は、ひたすら散歩のようでした。
そこで、どの程度友達ができたのかわかりません。
知り合いは出来たのだけど、友達にはなれなかったようです。

それと、お金をあげることのような感じでした。
お金の管理は別々でしたから・・・

ところが、その頃から弱気な言動が増えていました。
僕達も、子供達が結婚し独立したので少しづつ余裕も出来
二人で旅行をするようになりました。
少し、気が引ける感じでしたが、どうせ誘っても行かないし・・・・

でも今年、有馬温泉なら行くかも、と思い誘ってみようか
なんて言っていたのです。
とにかくもう歳だし、一回くらい旅行に連れていってやらねば・・・

そんなときに、病気が発症し入院、介護となったのです。
僕が母親のお金を預かった時、殆どありませんでした。
全部、みんなにあげてしまったんでしょうね
お金をあげる事だけが、楽しみみたいに・・・
既に病気だったんでしょうか

認知症も発症し、精神的に不安定になったので僕が前面に出て
母親の相手をし、介護をしました。

退院して2日目、寝れず喚く母親に、僕は側について話をしました。
寝るまで付いててあげようと思ったのです。

長く話をしました。
すると母親が
「もう残ったのは、あんたと二人だけになってしもたな
  こうやって、これだけ話したことも無かったな」

やっぱり寂しかったんやな・・・・

介護状態で、だんだん奥さんに攻撃的になる事が多くなりました。
お茶が熱い、味噌汁が熱いと目を吊り上げて怒ります。

僕が前面的に受けて、母親に怒ります。
母親は僕には何も言いません。
たった一人しかいないと思ってる息子に怒られるのは
悲しかったでしょうね。

母親が僕のことをお父さん、お父さんと言っていた介護生活
だんだんと母親の状態も悪くなり、介護の限界を感じていた時に
徳島の遠い地から突然舞い込んで来た入所の話
ここで断れば次が何年後になるか分からない
でも、お願いしますはもう二度と一緒にご飯を食べる事も無くなることは分かっている。
そして、もう戻る事が出来ない施設にお願いして帰るとき「いやや、いやや」と母親の
叫び声を聞きながら帰った事・・・・
車の中で流れていたのは「トイレの神様」でした。

なんか、涙が止まりませんわ・・・

父親に翻弄された人生だったと思います。
でも、父親の写真や遺物を大事にしまい、あれだけ無茶な
父親でも居なかった事が、寂しかったんだと思うようになりました。

天国で本当の父ちゃんと、いつまでも仲良くしてください。


だらだらと書きましたが
介護の事はこれで終わります。
有難うございました。

明日からは、楽しい料理の記事を書いていきたいと思います。

テーマ : ひとりごと ジャンル : 日記

14:17  |  介護  |  トラックバック(0)  |  コメント(8)  |  編集  |  Top↑
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