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2011.03.25 (Fri)

豚肉じゃが

先週から、どうも調子がよくありません。
発熱に悪寒があったので、風邪をひいたのだと思い
先日、何時もと違う内科に行きました。
いつもの病院は満員で、診てもらうのに何時間かかるか分からないのです。

問診と聴診器で風邪ですね
注射を打ってもらい、何種類かの薬を貰いました。
薬をちゃんと飲んでるんですが、鼻づまりに血の混じった黄色い鼻汁
が止まりません。
咳も咳止め飲むも、収まりません。

奥さんも同じ症状になってきました。

目が痒い? はぁ?
花粉症の症状?

でも、耳鼻科も行ってて1ヶ月前から薬を飲んでるんですが
???????????

いったいなに?

風邪か花粉症か分からなくなってきました。
来週は病院へ行って、また診てもらいます。


昨日の晩御飯
残り野菜活用を考えてたんですが、豚肩ブロックが安かったので
買いました。
その肉の一部を使って、肉じゃがを作たんですが
奥さんは不満です。
「肉じゃがは、牛薄切りやんか」
また、安い物好きやから変えよったかって・・・

食べてみたら、ん~~~ん
確かに納得、牛かな
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奥さんが「胡瓜がもう、柔らかくなってきたよ」
それなら、ワンパターンの胡瓜とシーチキン和えでございます。
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長芋もお気に入り
玉子はうずらが良かったかな
でも黄身をたっぷり付けて、日本酒が合いそうだわ
贅沢者っていわれそうだ・・・あはは
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今日のメニュー
1.豚の肉じゃが
2.胡瓜とシーチキン和え
3.山芋短冊
4.マグロの刺身
5.中華風胡瓜漬け
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<追記>
そうだ、今日は僕の初給料日
震災復興に募金してきま~~す。



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2011.03.23 (Wed)

トマトのサラダ

今日は、昔からお世話になってる串かつ「れんがや」のマスター
に母親の事を報告に行こうと、奥さんと神戸駅で待ち合わせしました。

世間では給料日前で、お客は少ないだろう・・・・と思って予約が
遅れたのが致命傷となりました。
「今日は満席でだめですわ」
つれない返事です。
若い時は、そんなとき2時間くらい平気で待ちましたが、今はダメです。

どうしよう?

奥さん「今から家に帰ってご飯作る?」
オイラ「そんな気起こらんわな」

ということで、三宮に戻って、昔行った美味しい焼き鳥屋に
行ったんですが・・・・・
安くて、美味しくて、汚い感じが好きだったんですが
小奇麗にした店に変わって、焼き鳥、魚、野菜、何でも有りで値段が高い
この店、何が売りなんやろって店になってました。
多分、潰れると思います・・・予想は当たるか?

もう行くことは無いのでカットです。


そこで今日の晩御飯は、最近作ってカットになったのが
急遽代理で登場です・・・あはは

レタスと胡瓜を一面に敷いて、トマトを周りに飾り
真ん中には、蟹カマを乗せました。
豪華ですな・・・トマトが(笑)
ごまドレッシングで頂ました。
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今日のメニュー
1.トマトのサラダ
2.鱈の味噌焼き
3.めざし
4.揚げときぬさやの味噌汁
鱈の味噌焼き、ちょっと焼きすぎだけど美味しいかったです。
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この後は、関西周遊切符の旅です。
よかったら、見てってください。

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20:27  |  ┣野菜料理  |  トラックバック(0)  |  コメント(6)  |  編集  |  Top↑

2011.03.22 (Tue)

水菜とツナのパスタ

今日から、料理のブログに戻ります。

母親の訃報を知らせると、奥さんの友達が来てくれました。
いろいろ話をしてると、料理の話になりました。

今まで奥さんは友達どうしで
時々レストランや居酒屋へ行ってワイワイしてました。
その奥さんの友達も僕のことを良く知ってて
「○○君、料理作るんやて」

僕が
「家に来たら、料理作ったるで・・・創作料理はまだようせんけど」
奥さん友達
「創作はいらんから、材料とレシピ持ってくるわ」

なんと僕の料理を信用していない様子
お酒と材料持っといで、唸らしてあげるから

何時の事やろ・・・・あはは


今日の晩御飯
プランターの水菜が、急に大きくなってきました。
これは使ってあげないと、と思い胡瓜と和えるつもりだったツナ缶と
プチトマトを使い、パスタを作りました。
盛り付けが雑だけど、味はグー
レンガ倉庫のパスタに負けないよ、って奥さんが褒めてくれました。
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今日のメニュー
1.水菜とツナ缶のパスタ
2.ブロッコリーとトマトのごま和え
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19:20  |  ┣麺料理  |  トラックバック(0)  |  コメント(10)  |  編集  |  Top↑

2011.03.21 (Mon)

僕と母親の昔話

僕が物心が付いたときには、神戸の西の方にある
須磨区板宿という所に住んでいました。

水道もトイレも共用で、家って言うもんじゃなく間借でした。
貧乏だったんです。はい

両親と姉と僕の4人家族でしたが
父親は酒に溺れ、家で喚き暴れていました。
気が弱く、外で文句を言えない分、家で母親にあたっていました。
仕事も長続きせず、どの位まともに働いたか知りませんが
なかなか安定した収入が入りませんでした。

そんな状態のなか、母親は一生懸命働き、家計を支えました。
そして家に帰ってくると、ご飯を作って、訳の分からない事を喚く父親の相手です。
毎日のように喧嘩です。
そんな家庭でした。

僕が高校を卒業して就職し、夜間大学へ通ってた1年の終わり頃
父親がまた酒で暴れて、母親を殴っていました。

隣の部屋にいた僕は、我慢できなくなって父親のところへ行って
父親を殴りました。
僕は「こんな家におれるか、出て行く」
といって引越し準備し、出て行きました。

姉も同様な感じで、もう家には居ませんでした。
子供が出て行っていまい、母親は凄く悲しかったのだろうと思います。
でも、どうする事もできなかったのです。

僕は大阪で、6畳1間の暗いアパートを借りました。
その時の会社の給料は、4万8千円だったと思います。
そこから光熱費や家賃で2万円が無くなります。
残りは学校までの電車賃とバス代を出し、大学で必要な物を買い
残りが食費でした。
給料前には、本当にインスタントラーメン買うお金もなくなる毎月で
授業料はボーナスで支払いました。
遊ぶお金なんて無かったです。

そんなとき、会社の人で朝4時半に起きて、朝食のおにぎりを作り遠いところから
持ってきてくれる人が現れました。
それが今の奥さんなんです。

一緒に朝ご飯食べた後は、手を繋いで会社行っていました。
それを上司が、窓から見てて
「何を朝から、いちゃいちゃして会社来とんじゃ」ってよく怒られていました(笑)
いう事聞かなかったですが・・・あはは

それから結婚し、6畳と4畳半の2間の家に住み、子供も生まれて1年ほど経った時でした。
母親が家に来て、相談があるといいます。
「お父さんがな、一緒に住みたいというてる。
  皆で働いたら何とかなると言うてるんやけど・・・・」

それに「借りる時の敷金は無いので出して欲しい」と

迷いました。
僕もそんなに貯金は無く、しかも社内預金だけでした。
結局、上司から経理に話してもらい全額緊急出金しました。

そして、神戸の山の麓のような妙法寺へ両親と引っ越しました。
最初の半年は何事も無かったのですが
それ以降、父親はまた元に戻り、働きもせず毎日酒を飲み
グダグダ言うようになりました。

それには、僕の奥さんが耐えられません。
子供を連れて家出しました。
幸い直ぐ戻りましたが、奥さんの事が心配で仕事が手につきません。

やはり同居は無理と思い、また出て行こうと考えたとき
父親が酒とたばこの酷い部屋で喚いていたので
僕が父親を玄関の方まで引きずり出し
「出て行け」
と叫けんでるところへ、母親が
「こんな人間のために、あんたが傷ついたらあかん」
と止めに入ってくれました。

僕達もお金が無かったので市営住宅に申し込んだら、一回で当たり
早速別居して暮らすようになりました。

その後の、両親の細かい経緯は知りません。
2回程引越しして、風呂のない小さな家に引越していました。

喧嘩別れしたため、両親には連絡も何もしませんでした。
そんな正月が近かった日だったと思います。
母親から電話がありました。
「何の連絡もよこさんとは、どういうことや」

えらく怒っており、30分位電話で文句を言っていました。
僕は何も言わず、ただじっと聞いてました。
僕は母親には、反論する事はしなかったです。

その正月、2人目の子供も連れて4人で両親の家に行きました。
結局、父親が孫を抱きたかった。
それだけだったような気がしました。
母親は、父親にずっと言われてたんでしょうね。

その後、お酒が原因で父親は亡くなりなした。
気丈な母親は葬式もしきり、無事に済ませました。
以前、父親が「お前は気が強過ぎる」と言った時
母親は「あんたのせいで、気が強くなったんや」
と反論していました。

少し経ったある日、僕が母親に一緒に住もうかと言ったのです。
父親が居なくなったので、上手くいくと思ったのです。
母親には迷いはなく、再び同居生活が始まりました。

最初は四国へ旅行に行く時も、一緒に母親も行き
喜んでいたようでした。

でも日が経つと、僕らの若い家族と、苦労して歳を取った母親とは合わなかったのです。
しかも、長年の父親の影響で気が短くて強い人になっていたのです。

嫁姑のいざこざが始まります。
僕は母親に文句をいう事なしに、奥さんにはひたすら謝っていました。
それしか出来ませんでした。

同居して数年経った時、母親が肺結核になり入院しました。
少し遠いところでしたが、奥さんが対応してくれました。
でも、奥さんは病院から泣いて帰ってきました。
大部屋に入るとき、皆に挨拶しなかったという理由で相当文句を言われたのです。
兎に角、僕は奥さんに謝って、謝って・・・それだけでした。

その結核せいか不明ですが、母親の皮膚が斑に白くなったのです。
凄く気にしていました。

母親は、同居により生活費が要らなくなっても、余ったお金で
遊んだり、服を買ったり、美味しいものを食べるということは
出来ませんでした。

一緒に食べに連れて行っても、待つ事が嫌いでイライラしてしまうのです。
だから、一緒に行く機会も減っていきました。

「我慢が美徳」という生活でした。
ただ規則的に、決まった時間にご飯を食べる
でも自分で作るという事はしなかったです。
自分は料理が下手だから、それを見せたくないとの思いが消えないのです。

夕飯の時間がずれると、ソワソワしてくるのです。
その晩ご飯の用意を奥さんは、20年以上してくれました。

孫の結婚式にも、人前には出たくないと言って聞きませんでした。
お祝いだけ渡して、家にいました。

その後、姉が亡くなり、その姉の孫がお世話になったから温泉へ行こうと
一生懸命に誘ってくれたんですが、聞きませんでした。
何が楽しみだったのか分かりません。

していた事は、ひたすら散歩のようでした。
そこで、どの程度友達ができたのかわかりません。
知り合いは出来たのだけど、友達にはなれなかったようです。

それと、お金をあげることのような感じでした。
お金の管理は別々でしたから・・・

ところが、その頃から弱気な言動が増えていました。
僕達も、子供達が結婚し独立したので少しづつ余裕も出来
二人で旅行をするようになりました。
少し、気が引ける感じでしたが、どうせ誘っても行かないし・・・・

でも今年、有馬温泉なら行くかも、と思い誘ってみようか
なんて言っていたのです。
とにかくもう歳だし、一回くらい旅行に連れていってやらねば・・・

そんなときに、病気が発症し入院、介護となったのです。
僕が母親のお金を預かった時、殆どありませんでした。
全部、みんなにあげてしまったんでしょうね
お金をあげる事だけが、楽しみみたいに・・・
既に病気だったんでしょうか

認知症も発症し、精神的に不安定になったので僕が前面に出て
母親の相手をし、介護をしました。

退院して2日目、寝れず喚く母親に、僕は側について話をしました。
寝るまで付いててあげようと思ったのです。

長く話をしました。
すると母親が
「もう残ったのは、あんたと二人だけになってしもたな
  こうやって、これだけ話したことも無かったな」

やっぱり寂しかったんやな・・・・

介護状態で、だんだん奥さんに攻撃的になる事が多くなりました。
お茶が熱い、味噌汁が熱いと目を吊り上げて怒ります。

僕が前面的に受けて、母親に怒ります。
母親は僕には何も言いません。
たった一人しかいないと思ってる息子に怒られるのは
悲しかったでしょうね。

母親が僕のことをお父さん、お父さんと言っていた介護生活
だんだんと母親の状態も悪くなり、介護の限界を感じていた時に
徳島の遠い地から突然舞い込んで来た入所の話
ここで断れば次が何年後になるか分からない
でも、お願いしますはもう二度と一緒にご飯を食べる事も無くなることは分かっている。
そして、もう戻る事が出来ない施設にお願いして帰るとき「いやや、いやや」と母親の
叫び声を聞きながら帰った事・・・・
車の中で流れていたのは「トイレの神様」でした。

なんか、涙が止まりませんわ・・・

父親に翻弄された人生だったと思います。
でも、父親の写真や遺物を大事にしまい、あれだけ無茶な
父親でも居なかった事が、寂しかったんだと思うようになりました。

天国で本当の父ちゃんと、いつまでも仲良くしてください。


だらだらと書きましたが
介護の事はこれで終わります。
有難うございました。

明日からは、楽しい料理の記事を書いていきたいと思います。

テーマ : ひとりごと ジャンル : 日記

14:17  |  介護  |  トラックバック(0)  |  コメント(8)  |  編集  |  Top↑

2011.03.20 (Sun)

お世話になりました

皆様に、長い間ご心配をおかけしましたが
母親は、18日11時に永眠致しました。
同居生活25年、介護は1年4ヶ月の生活に終止符を打ちました。


16日に施設から連絡があって、飛んでいったとき、もう病院に移動しており
意識はありませんでした。
ただ深く、小刻みに呼吸だけしているようでした。
病院としては入院手続きが必要らしく、また施設での荷物も受け取りました。
病院の先生から話を受けました。
「いつ亡くなってもおかしくないです。僕は1つの悪い箇所があれば5歳
 年齢を足すんですよ、お母さんは2つあったから10歳足すと90歳
 平均年齢以上生きたんだから、十分じゃないですか。
 人口呼吸器とかは、苦しめるだけだし・・・どうですか?」
僕は
「はい、それで結構です。お願いします」

先生は更にレントゲンを見ながら
「普通の人の心臓が、こんなになったら直ぐに亡くなってますよ
 多分、随分以前から悪く、徐々に悪くなっていったんでしょう
 だから、心臓がこんなになっても持ってるんだと思います。」
再び宜しくお願いします、とお願いしました。

手続きをした後、看護婦さんから、もしもの時の対応を求められました。
どこへ、どう連絡したらいいのか分かりません。
そこで、今回大変お世話になってる徳島県NPO法人の方に連絡し
手順を教えてもらい、連絡して頂きました。

本来なら、このままずっと傍にいてやればいいんですが
手続きの関係で、神戸の役所にも行かなければならず
荷物を受け取って、様子を見て一旦神戸に帰りました。


ちょっと疲れたのかな?
翌日晩から頭が痛くなって、18日には朝から風邪だと思い病院へ行きました。
2時間待っても順番が来なく、待合室で急に携帯が鳴りました。

病院からでした。
「お亡くなりになりました」

熱があるなか、診察してもらえず行かなければです。
慌てました。
レンタカーを手配したんですが、もし熱で途中フラっとなって事故が心配
今回凄くお世話になっているNPO法人の方から
高速バスでもいいんですよ、と教えてもらいそれに変更しました。
38.5度の熱があったので、それが良かったです。

2人の子供にも連絡して、奥さんや孫を連れて来ず、子供だけ車で来て貰いました。
全部で4人です。

直葬ということで、母親には我慢して貰いました。
病院、施設、役所と手続きして再会したときの母親の顔は
病院のときより、穏やかな顔でした。
これで良かったんだと自分にいい聞かせました。

ほんとに少ないお見送りでしたが、これでいいんだとも・・・


介護状態になったときから、僕のことを
「お父さん、お父さん」と呼び、時には「お父ちゃん」と呼んでました。
本当の父親と僕が重なったのかな
ヘルパーさんやデイサービスの人まで
「息子さんが大好きやもんね」って言ってました。
母親はニコっとしてました。
正直、内心イヤでしたが・・・・

今日は、その僕とその家族、みんなが居るんだからいいよね


みんなと一緒に、遺骨となって神戸の家に帰ってきました。


皆様、大変お世話になりました。
徳島NPO法人の方には、本当に最初からお世話になりました。 
有難うございました。




今日は、このくらいです。
これからブログは、普通に戻していきます。
もう一回だけ、思い出を書こうと思ってます。
暗くなるけど、許して~~~

皆さん、これからも宜しくね!

テーマ : 日記 ジャンル : 日記

18:52  |  介護  |  トラックバック(0)  |  コメント(13)  |  編集  |  Top↑
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