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2017.07.17 (Mon)

神戸開港150周年記念とここでしか聞けない開港の話

日曜日、神戸は開港150周年記念イベントで賑わいをみせ、帆船も停泊して日頃見せない光景で楽しませてくれました。
IMG_2906170717.jpg
そしてメリケンパークの公園では屋台がいっぱい
だけどね、暑いアツイ!
35℃超えてんだもんね
IMG_2902170717.jpg
ステージも元気よくラップ歌ってたけど、暑くて見てられないからお客さんも少ないわ
IMG_2904170717.jpg
演奏してる人には気の毒だけど、やはり建物のなかへ
この日から、イオンスタイルのお店が開きましたので、皆さんそちらへ行ってましたね
かなり広くてイートインスペースも充実してたけど、なにせ二日目でしたから大変でした。
この様子は、後日アップしたいと思います。


ところで、その昔どうして神戸が開港になったのか、開港元年とは
そんな話は殆どなく、年表に1行超簡単に書かれてるだけでした。
今日はその辺りを僕なりに知ってる範疇で楽しく纏めてみたいと思います。


ポンポン、ポポンガポン(講談調)
時は江戸時代の終わり、欧米の連合国が
「おい、金で出来た家(金閣寺)がある金持ちの国があるようやから、脅して取ってまおか」
そんな相談をした黒船艦隊が鎖国をしていた日本に来たのが1858年の話
(中学の歴史で勉強しましたな)

当時の江戸幕府に連合国が
「コラッお前ら、ワシらが住めるところと港を差し出せ」と言うたんですな
江戸幕府は都がある東京と京都は避けたい、けど遠いところも受け入れて貰えんやろという事で
横浜と兵庫辺りを候補に挙げたのです。

ところがこの兵庫の港は兵庫津といって、今の中央市場がある所で、現在の神戸港から西へ
約2~3km離れたところなのです。

じゃ、なぜ今の神戸港になったのか
それは当時、現在の神戸港は神戸村といって過疎地だったのですが、近くの元町に
1785年生まれで生家が呉服商の網屋吉兵衛という人が居たのです。

この人、11歳の時に荒物商へ奉公に出るのですが、その奉公先の商売に船を使ってたのです。
ところが木でできた船ですから、船底にフナクイムシや貝がくっつくのですがこれが取れない
長く船を使うためには取って整備が必要だから、面倒でもドッグがある四国まで運んでいたのです。

それを網屋吉兵衛は、近くの神戸村の海岸に船ドッグを作ろうと、この海の深さ、潮の満ち引き
風の方向等を十数年かけて調べたのち、夢のドッグを私財を投じて建設し始めたのです。
1855年には完成したのですが、費用が掛かり過ぎて借金を背負い、返せと訴えられた時に
神戸村が間に入り借金返済は無くなったのですが、この船ドッグを担保として取られるのです。
しかしここの管理人として雇われ、返済すれば返して貰える話だったのです。


ところがですよ、初めの話に戻ります。
連合国が「ワレ、早よせんかい、いつまで掛かとんじゃい」
と、幕府の徳川家茂に迫るのですが
「そ、そ、そんなこと言うても、天皇ちゃんがOKしてくれへんもん」
連合国は
「幕府のオマエじゃ話にならんから、直接天皇と交渉するわ」
「そんなことされたら僕の立場が無いやん」
と将軍家茂は大阪へ船で行くことになったのですが、その乗った船は海外を経験して海軍の必要性を
訴えていた勝海舟の船なのです。

勝海舟は網屋吉兵衛が、ずっと神戸村の海の様子を調べていたのを聞いて知ってたので、将軍の
家茂を吉兵衛に合わせ、開港することの是非を直接吉兵衛から聞かせたのです。
吉兵衛は「開港はバッチリでっせ、僕がずっと調べましたから自信ありよ」なんてね

それに自信を得た家茂は、嫌がる天皇家を説き伏せて、漸く1867年(慶応3年)神戸村に港が開港
され、後に連合国が入って外国人居留地として発展、そして船ドッグは神戸税関として利用されたのです。

一方の網屋吉兵衛と神戸村が交わした返還についての話は破棄となり、網屋吉兵衛は全財産を
失っただけでなく、一人で生涯を掛けて調べた神戸港の成果も認めて貰えなかったのです。
今回の神戸開港150周年には全く名前が出てきませんが、本当はこの人が居たから神戸が港町
として栄えたといっても過言ではないように思えるのです。
この網屋吉兵衛の碑は新しく出来た「みなと温泉」に残ってると思います。
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2016.05.19 (Thu)

衝撃的な図を見た!源平合戦 一の谷のゆくへ

今日は料理とは全く関係ない歴史の話です。

こんな童謡をご存じでしょうか⇒牛若丸と弁慶
♪京の五条の橋の上
大のおとこの弁慶は
長い薙刀ふりあげて
牛若めがけて切りかかる♪
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京都・五条大橋にある牛若丸と弁慶の可愛いモニュメントなんです。
牛若丸は小さいけど、身軽で強かったというお話ですね

でもタイトルとなんの関係があるの?しかも何の話しやって思われた方も居られるかと
まだしつこく平清盛関連の源平合戦を追いかけてて(笑)大いに関係があるのです。

少し前になるのですが、神戸市立博物館で行われてた「須磨の歴史文化展」を見てきました。
IMG_0446a.jpg
須磨というのは神戸市内の西に位置するところで、平安時代の和歌にも登場する場所なんです。
子供の時から二十歳前まで住んでまして愛着がある場所なんですよ

何を見たかったという前に少し平安時代の終わり頃の話をしますね
平安時代の政治は天皇が実権を握っており、その天皇の継承は貴族や公家を中心として
争いを繰り返しながら継承されてきたのです。
それを天皇や公家を守る身分の低い武士である平清盛が、貿易により経済力を持ち
天皇の信頼を得ながら初めて武士として公家になり、自分の娘を天皇に嫁がせて遂に
孫を天皇にさせ実権を握ったのです。
そして強引に都を京都から自分の好きな神戸の福原に移したのです。

一方武士でライバルであった源義朝は平清盛に負けて殺され、その三男であった源頼朝も
清盛に殺されそうになったのですが、清盛は命は取らず伊豆へ島流しにしたのです。
後に源頼朝が勢力を伸ばし平家を追い詰めていくのですが、その源頼朝の弟が最初の牛若丸なのです。

平家は追い込まれて一旦は四国の屋島に逃げるのですが、体制を整えて神戸の福原に戻り
源氏方を迎えて一大決戦に臨むのです。
それが世にいう「源平合戦・一の谷の戦い」で、最大の功績は牛若丸と弁慶が絶壁を馬を使って
駆け下り、それを見た平家が恐ろしくなって逃げだし源氏が勝ったという合戦なんです。
その駆け下りてる様子の絵です(お借りしてます)
422px-Sakaotosi[1]_convert_20120902083712
この事は当時の様子を書いた歴史書・吾妻鏡に書かれいて間違いない事のようなのですが
どうも納得できないのです。
その様子を詳しく書いてるwikipediaはこちら⇒一の谷の戦い

平家の武士も命を掛けて戦ってるのです。
平家は東側に東木戸を生田川(現在のフラワーロード)に立てて、源氏の大軍を待ち受け互角に戦うのです。
一方の西側の平家の武士、いくら義経(牛若丸)が凄いと言っても崖から降りてくる様子を見て逃げますか?
数は圧倒的に自軍の平家の方が多いのですよ

西側の平家の武士は見ただけ怖気づいて逃げた
刀で戦うので人数が多い方が勝ちと言われた時代、納得できないのです。

吾妻鏡には一の谷の後ろにある鵯越から意表をついて牛若丸と弁慶が攻めてきたと書いてるのです。
この文章が謎なんです。
現在の鵯越と一の谷は別々の場所で10km程離れていて、話が合わないのです。
それでは絶壁を降りて来たのはどこなのか?
これがずっと論争になってるのですが、この場所によって平家がどう戦ったか違ってくるのです。
一体、西木戸(西側の陣地を区分して防御する板)はどこにあって、どんな戦い方をしたのだろう?
普通に考えるなら、福原を中心として生田川を東木戸にするなら、同じような距離の所の川辺りに
西木戸を立てて待ち構えるのじゃないでしょうか

問題をややこしくしてるのが一の谷という明治時代から伝わる場所なのです。
神戸西部の地図です。
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赤い丸が神戸の都であった福原ですが、ここを中心として東側に平家が京都から山陽道を源範頼の大軍を迎え
生田川(今のフラワーロード)に木戸を立てて戦った場所なのです。

そして現在の鵯越は小さな茶色の◇で一の谷は緑の□になるのです。
これでは話が合わないので、学者の方が研究されて文章から
緑の□の現在の一の谷が合理的と判断され
歴史や観光、そして映画が作られてきたのです。


でも、そうなると平家は正面から向かってくる義経(牛若丸)を見て逃げた弱虫となるのでしょ
そこんところが、どうしても納得できないのですよね
でもそれを覆すとなると、町興しや映画までも作られてるのですから大変な問題なのですね

そんな疑問をずっと持ってて、この「須磨の歴史文化展」で見た驚きの絵がこれなんです。
写真が禁止で撮れませんので、スケッチしたのを載せました。
「塩屋村垂水村与西須磨村国堺井漁業相論絵図」(1669年)というものでした。
ichino1.jpg
これは江戸時代の初期、密漁に悩む村民がお奉行に訴えた時、奉行所が裁きをするために
書いた地図らしいのです。
よく見ると、一の谷、二の谷、三の谷とあって、どうも谷じゃなくて川のようなのです。
江戸時代の初期、一の谷とは川で途中で分岐してるのですよ
これはネットいくら探しても出てきません。
これで完璧かというと疑問が残る部分もあるのですが、非常に重要な図に思えるのです。

その文化展の最後に「神戸市須磨舞子全景」という写真の説明では
現在の一の谷しか存在せず、敦盛塔のある場所に代わってるのです。
この時代の間に、誰かが谷=山と間違えて違う場所を一の谷と伝えたようなのです。
その間違った情報(江戸時代後半から明治の話)を基に、色々と物語が出来たみたいです。

これは兵庫津(現在の兵庫から神戸港)の図なのですが、よく見ると左側に分岐した川が有るでしょ
ひょっとすると、あれが一の谷?なんて勝手に思ったりするのです。
(街中にある看板から)
043_convert_20121006192247.jpg

もしそうだとしたら

僕の推論です。
西木戸は一の谷(川)に立てて源氏を迎えようと兵を配置してた
そこへ源氏が外から攻めて防御しながら戦っいたら、西木戸の内側に急に鵯越の谷から
義経が現れて背後からも攻められ、混乱して逃げてしまったのではないかと思うのです。


これが当たってるかどうか分かりません
素人の推論ですから・・・・当たってるような気がするだけどな・・・・
こんなことをしながらも楽しんでます(*^□^)ニャハハハハハハ!


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2012.12.24 (Mon)

平清盛を追いかけて学んだもの

終わったはずですが、総括がないのがなんとも・・・・ね
本当は確り書いて終わりたかったんですが、土曜日に中学同窓会の
忘年会があって、ワイワイ言いながら久しぶりに飲んだものだから、二日酔い

今日は平清盛を勉強しながら追いかけて、何を掴んだのか
ちょっと怒られるような内容もありますが、敢て書いてみたいと思います。


清盛が目指したのは何だったのか

天皇を中心とした王家、それを支える藤原家
自分達の地位や権力を守るため、その内部で争いを繰り返し世の中を省みませんでした。
民は食べる事にも事欠き、病気などで苦しんでいたのです。

まるで何年か前の自民党と官僚の関係とよく似てると思いませんか?

これではいけない、安心して暮らせる世の中を作ろう
自分達、武士が政権を奪還して武士が世を治めて、安全安心な世を実現しようと
それに邁進したのです。

それが政権交代、民主党の圧勝とも似ています。


一介の武士が最高の位まで上り詰めたのは、評価されるべき内容だとも思うのです。
しかし実際政権を取ってみると、従来の藤原氏と変っただけで血筋を中心とした権力
争いは解消されなかったのです。

それどころか従来からの権利を手放したくない勢力が黙ってなく、社寺や藤原家
地方の武士等が攻撃し、小競り合いは続き、民は更に疲弊してしまうのです。

清盛はそれでも武士の世の実現に向けて、出家して第一線を引いたようにしながらも
絶対権力を維持し、政を操るのです。

清盛はまるで嫌いな民主党時代の小沢さんにそっくり

清盛は家族や仲間を大切にしました。
人間味溢れる、いい大親父だったのです。

子供達や孫に能力は関係なく政治の要職に就け、体制を築いていきました。
小沢ガールズや小沢派の大臣みたいな人ですかね


しかし、巨大になった平家の内部で、清盛のやり方に反発する子供も出て来ましたが
清盛はそれを押さえつけ、自らの力で夢の実現を進めたのです。
そのため平家の子供達は戦の仕方も分からず、藤原家や後白河法皇にも対抗する力
を持ってなかったのです。

まるで民主党の大臣の総崩れの状態と良く似ています


《何がダメだったんでしょう》
清盛は子供達の能力を向上させることをしなかった、そこが問題じゃなかったのか

自分がやる、自分が築いた権力、自分の成功体験、それらを捨てて、後継者に大胆に譲らなかった
そのために子供達は苦しい経験をせず育っていったのです。

一の谷の合戦時、平家の武将は薄化粧をしていました。武士の嗜み?
いざ出陣の際、恋人と別れるのが淋しくてイジイジしてる武将もいました。
(神戸の氷室神社にその様子が描かれて、その神社を恋愛弁天とも呼んでます)

苦しい所から這い上がってきた武将達と、戦える状態ではなかったのです。
こんなことを覚えてられるでしょうか
昔の人の知恵の結集だったとも思えるのです。
naramachi1.jpg
子供達が苦しくても口出しせず、じっと見守り、ここぞと言う時だけ登場する。
そして自分達より成長した人間に育てる。
そこが欠けてたのではないでしょうか

現在を振り返ってみると「今の若いもんは」と言いう人を沢山見かけます。
昔から言う言葉です。
それは自分の成功体験が捨てられない、そして自分が、という思いだと思うのです。
そして寿命が延びて、口出しが続き世代交代が出来ない
今はそんな世の中じゃないでしょうか

清盛の歴史を振り返るとき、極悪人は平清盛で決してその子供達とは言いません。
今の世代がダメなのは、その前の世代が育ててないからと歴史は評価します。

そこに国民が踏み込めないと日本は衰退を繰り返していくだけ、と歴史は教えてるように思えるのです。
日本の政権は自民党の藤原家に戻りましたが、日本の根本が変ってないので変えることは出来
ないでしょう

そして頼朝みたいに新しい勢力(それが日本人ならいいんですが)が支配する時代
が今まさに近づいてるように思います。

昨日の清盛の放送の後、ドラマ「日本国債」をご覧になったでしょうか
前から言われてますが、確実にやってくると思われるXデー
海外のハゲタカは近いと狙ってます。

もし国債暴落が実際起これば、最悪な世の中が訪れます。
経済が借金が大きすぎる日本は、ギリシャのように誰も助けられないのです。
NHKの警告が外れる事を期待したいです。


平家が滅びた後の京の町は、飢餓や疫病で民の暮らしはどん底
賭け事や盗賊、人を殺めて生活する人が増えてきて不安な町になっていくのです。


その時、町の人達が生きていく為に悪事を働いた、せめて死んだ後は天国にいきたい
そういう思いから立派な考えを説いたのが、法然であり親鸞だったのです。
今の時代、オウム真理教の信者がまた増えてるそうですね

人間は保守的な動物だと言われてます。
900年前と比べても、人間の本質的なことは変らないんですね

《自分がすべき事は》
将来が心配だからと貯金なんかしませんよ
ま、収入がないので増えませんが・・・あははは

最大の問題である子供を増やす環境を作ること
お金なんてありませんから設備的なことは全く出来ません。

よく独身の方や離婚された方の話を聞くと、親を見て結婚なんか何もいいことが無い
離婚して、もうこうこりごりって話を聞く事が多いです。
反論は出来ません。人夫々状況が違いますから・・・・

でも苦しい時に結婚していれば楽しい生活が待っていると若い人に見せて、結婚も悪くない
と思うように夢を見せてあげるのが国民として、既婚者としての自分が出来る事かなって思った
のです。


だから今後ともバカバカしい甘えた記事を書いていきますので、宜しくね!・・・あははははは




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2012.12.23 (Sun)

平清盛「遊びをせんとや生まれけむ」・最終回

あ~~今日が最後でございます。
最後の清盛見たってね~~~~

番組のあらすじはNHKのHPからご覧ください⇒

前回までの解説と新相関図はこちら⇒

ドラマの進行とこの解説がずれていますが、そこはほれ、大目に見てください(笑
最終回は総まとめみたいなところがありまして、源氏の頼朝や義経の事を簡単に触れて
終わるようです。だから最後の解説はさっと飛ばすところを中心にしたいと思います。


先週登場した源氏の木曽義仲は、同じ源氏の源範頼、義経(どちらも頼朝の兄弟)に滅ぼされてしまいます。
ここで後白河法皇は源頼朝に対し、平家追討と三種の神器奪還の命を出すのです。

頼朝は、1184年2月に範頼には5万6千騎、義経1万騎を与えて京を出発させました。
一方、後白河法皇は福原で清盛の法要をしている所に使いを出し、源氏に戦わないよう御触れ
を出したので、和平せよと騙すのです。
義経は、源氏はやる気を無くして帰った等と噂を町に流し、平家を安心させたのでした。
義経は喧嘩に強いだけじゃなく、策略家だったんですね

平家はそれを信じてしまい・・・・不意をつかれてしまうのです。

その様子は以前の記事⇒一の谷合戦をご覧ください。

同じ事を書いても仕方ないので、ここでちょっと疑問です。
5万6千騎てどんなけ?・・・騎士ですから馬に乗ってるんですよ
平安時代の道の主要道は道幅10mくらいらしいので、簡単に計算すると3kmの行列

トイレどうすんの?食い物に水に、纏まって走られへんのちゃう
疑問が多いですけど、ま、主要の山陽道ですから許そうじゃないですか

でもね、義経が1万騎で来たというのが京都から山中を通り、神戸からまだかなり西の山中にある
三草山で戦い勝利して、戻って一の谷合戦なんですね

義経が知らないはずの山の獣道を1万騎連れて来た?、そんなバカな
現在でもその道は写真で見ましたが巾が1m位の山道です。

かなり数にさばを読んでますな
そうなると全然話が違ってくるのです。
戦うには数が勝負の時代でしたから、源氏が不利なのです。

だから義経は、平家のスキを付いて急襲する必要があった
その場所は、不意をつける場所となる。だからそれは、今の鵯越なんですね

それが僕が前に書いた記事なんです。
この様に、この戦い全てが?????で実態が分からないのです。

ただ源氏が勝って、平家は屋島に逃げたのは事実で、そこから義経が後白河法皇の許可を貰い
再び平家を追い詰め、屋島から壇ノ浦に逃げる平家を滅ぼすのです。

このとき安徳天皇や主要な武将は海に飛び込み自殺しましたが、おろおろしてたのが
棟梁の宗盛だったようで、他に時忠や南都焼き討ちした重衡が源氏に捕らえられてしまいます。

実はもう一人平家で生き延びた人物がいるのです。
それはこの戦いに参加しなかった池の禅尼の子、平頼盛なんです。

元々清盛には不満があったため、頼朝は都落ちの際に頼朝と一緒に鎌倉に行ってます。
頼朝は自分の命を助けてくれたのが池の禅尼なので、その子である頼盛を大事にしたそうです。

一方、頼朝はこの戦果に従二位へ昇進したんですが、他の者が昇進するのに自分への相談が
無かったと怒ります。義経は宗盛らを連れて鎌倉へ凱旋しようとしますが、義経の勝手な
振る舞い(頼朝にとって)に怒り、鎌倉入りを認めず、それに怒りを表した義経を自殺にまで
追い詰めたのでした。

頼朝は、喧嘩に強くて策略家であった義経が一度も負けなかった事が怖かったんでしょうね


こでれ終わりでございます。
ま~酷い文章と誤字なんかもうえに、説明も文書が多く分かり難かったと思いますが
最後までお付き合い有難うございました。

神戸もこれで清盛観光が無くなるのでしょうか?
いや根性据えて続けるか、さてどっち????




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2012.12.16 (Sun)

平清盛「双六が終わる時」

今日の清盛は、7時15分からになってます。
アレッ、終わってたという事の無い様に、皆さん注意してくださいね

勿論、選挙の投票へ行ってからですよ(^o⌒*)/


番組のあらすじはNHKのHPからご覧ください⇒

前回までの解説と新相関図はこちら⇒


平清盛という歴史的事柄は南都焼き討ちが最後で、後は亡くなるまでありません。
あ~~、いよいよ終わりになってきましたね

興福寺や東大寺が焼けたことは貴族にとって落胆は大きく、平家離れは免れない状況になりました。
清盛としては、還都して戦いながら平家政権を保つしか方法は無かったのです。

そんな中、1181年1月高倉上皇がいよいよ崩御されたのです。
そうすると清盛は、棟梁の宗盛に京の周辺国の惣官職(人事責任者)に任命し、兵士と食料を抑えて
戦う体制を整えていったのです。

安徳天皇は平頼盛邸に行幸させ、平家は兵を固め戦う軍事政権へと変貌していきました。

しかし清盛は2月には病に倒れ、今回ばかりは清盛も観念して覚悟を決めるのです。
宗盛は、そのとき関東へ討伐出陣する状態でしたが中止し、最後の清盛の遺言を聞いたのでした。

一門が揃ってったところへ清盛は、
「この後は棟梁の宗盛に任せたので、一門は協力して平家の為に尽くせ」
ところが、一門には反応が無かったそうで
「棟梁は宗盛だ、皆は従え」と強引に言ったそうです。
それだけ、あまり宗盛は信頼されて無かったのでしょう

そして亡くなる直前「葬儀はいらん・・・それより頼朝の首を墓前に供えよ」
とも言ったそうです。

清盛は1181年2月4日、平盛国邸で亡くなったのでした。

その遺骨はどこに葬られたのかは、はっきりしないそうです。
でもその一つに、清盛が愛した福原の都、神戸の能福寺にお墓があるのです。
能福寺



ここからは平宗盛が平家の棟梁として動きますが、清盛とは違いすぎました。
王家は後白河法皇が院政を復活させて行いますが、宗盛は軍事力の把握を継続します。

一方の源頼朝の勢力はまだ小さく、各地には頼朝以外の沢山の勢力が要るのです。
平宗盛は頼朝を攻めるにあたって、順番に戦って行くしかなかったので、その年に尾張の国の
源行家と戦って勝つのですが、兵糧が尽きて統制が取れなくなって貴族の分まで強奪するよう
になっていくのです。

そこへ源頼朝から後白河法皇へ平家との和平の話が入りますが、宗盛は清盛の遺言どうり
頼朝の首に拘って、それを拒否してしまうのです。

そこへ襲ってきたのが大飢餓でした。
京の町は周辺国から税として食料を集めてましたが、それが飢餓によって集まらず町には大量の死者
がでる状態になったのです。

それにも関わらず宗盛は、頼朝とは別の反勢力である木曽義仲をまず討つべしとし、北陸へ兵を
向けるのですが、何せ兵糧が無いため軍勢は衰えて行き、宗盛は情勢を判断せず結局負けてしまうのです。

平家は逆に攻め込まれ、京を離れ都落ちをします。
平家は福原を越え、九州大宰府まで行ったのですが追われて、海上を漂うことになります。
そして四国の讃岐国の屋島まで逃げるのです。

裏では後白河法皇が木曽義仲に対し、京の治安と平家討伐を目的として京の入洛を許すのですが、義仲は
政にも口を出すようになり、京の治安は逆に悪くなって義仲軍が強奪をするようになるのです。

怒った後白河法皇は、義仲に対し西国に逃げた平家討伐の命を出します。
木曽義仲は、名誉挽回と逃げた平家を追いかけますが、水島の戦いで苦戦していました。

一方の後白河は、源頼朝に上洛を許し、木曽義仲討伐の命をだすのです。

それに驚いた木曽義仲は平家追討を中止して、京都に引き返します。
これによって平家は命拾いし、屋島に内裏を築いて勢力回復を図り、福原まで戻ったのです。


今度は、木曽義仲と源頼朝の戦いとなり源頼朝が勝って、その後有名な平家との一の谷合戦へと
なっていくのでした。


一の谷合戦の様子は、前に書いた記事を見てください⇒


平清盛というより、源平合戦になって来ましたな・・・トホホ


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